新たな発見いろいろ 下京史跡・旧跡ウォーク

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11/17(金)〜20(月)、ABの2コースで開催しました。
天候にもなんとか恵まれ、参加者の皆さんとのんびり京都非公開文化財特別公開2箇所の拝観と、京都下京のまち歩きを楽しみました。
特に市街地に点在する神社仏閣や史跡旧跡は、檀家や氏子、地域の方々により大切に保存継承されてきたものですが、都心部の人口流出や後継者不足などにより、後世へのバトンタッチで危機に直面するものも少なくありません。
文化財保護の第一歩はやはり認知され関心を持たれること。
「こんなところにこんなものがあるのか」「ここにあの○○(歴史上の人物)がいたのか」
──参加者の皆さんから多くこのコメントを頂戴し、開催してよかったと少し安堵しました。

以下、AB両コースの模様です。
またこのような企画を考えていきたいと思います。

Aコース(西本願寺→寺内町→四条烏丸西南エリア)

世界遺産・国宝の西本願寺御影堂、阿弥陀堂から堀川通を渡った東側、同寺の寺内町を形成していたエリアへ。

明治神宮や築地本願寺設計で知られる伊東忠太設計の本願寺伝道院から今回「京都非公開文化財特別公開」初公開となる一念寺、法輪寺拝観へ。

その後、源頼義や義家、義経ゆかりの地である六条若宮の若宮八幡宮では「源氏といえば鎌倉のイメージが強かったけど、京都のこんなところに住んでいたのか」と驚きの声が上がりました。

そこから北上し、五条天神宮→親鸞上人入滅の地(光圓寺※諸説あり)→真の(?)牛若丸・弁慶出会いの地(西洞院松原)→菅原道真生誕地で飛梅の残る菅大臣神社→北菅大臣神社(紅梅殿跡)→繁昌神社→ 班女塚→与謝蕪村宅跡と巡り、烏丸仏光寺のビジネス街のど真ん中にある八坂神社大政所元御旅所で解散。

大変狭いエリアに、歴史上の人物にまつわる旧跡や伝承が集中するのも、平安京以降重層的に歴史を織り成してきた京都下京ならでは。

約3時間半のウォークでしたが、あっという間に時間が経った印象でした。

Bコース(西本願寺→龍谷大学→本圀寺跡→島原エリア)

明治末頃まで、西本願寺は京都の市街地の西端でした。さらに西に位置する島原は田畑の中にポツンと佇んでいました。

このコース前半では、『京都非公開文化財特別公開』会場となった西本願寺飛雲閣(国宝)、同書院の玄関部分にある波之間、太鼓之間(国重文)を中心に、同寺阿弥陀堂、御影堂、唐門(いずれも国宝)、幕末に一時新撰組屯所だった太鼓楼(国重文)、明治初期の「擬洋風建築」の傑作である本館など計5件の国重文が集中する龍谷大学大宮キャンパスへ。

後半は本圀寺跡→島原大門→輪違屋→角屋(国重文)→梅小路公園の旧二条駅舎へ。
大量の文化財を堪能する前半とは打って変わって、栄華の跡を偲ぶ少し寂しいコースでした。

特に、本圀寺は1591年に六条堀川に来た本願寺に先立つこと約250年前からこの地に存在し、天台宗山門から焼き討ちされた天文法華の乱(1536年)、ここを仮御所としていた足利義昭を三好三人衆が襲撃した本圀寺の変(1569年)、天明の大火(1788年)などを乗り越え、1969年に一部塔頭を残して山科に移転するまで、一時離れた期間もあったものの、およそ650年にわたり存在した日蓮宗の大寺です。

本堂や五重塔など壮大な伽藍があった旧境内地の概ね南半分は京都東急ホテルと西本願寺聞法会館・参拝者駐車場に。
これだけでも十分広大ですが、北端は五条通の北、松原通り近くまで広がります。
旧寺地北東角付近にある東総門跡や、周辺に残る塔頭や石碑など旧本圀寺寺地の四方を歩き、参加者のみなさんも「これだけ大きなお寺がここにあったんですね」「いま残ってたら文化財の宝庫やったんやろね」と一様に驚かれていました。

続いて訪れた島原は「輪違屋」が唯一お茶屋の営業を続けていますが、現在では一般の宅地化が急速に進んでいました。

禁門の変(1864年)での大火をいずれも逃れながら、現在のコントラストがあまりに対照的な西本願寺と本圀寺。
文化財保護・継承には所有者・支援者そして経済的基盤が必要であり、それに戦火や天災など、偶然の要素も重なっていまがある。
そんなことを改めて学んだイベントとなりました。


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