祇園祭の季節になると、毎年必ず思い出す人がいます。
亡き父のすぐ上の姉、嶋瀬員代(しませかずよ:1929〜1946)です。
父には三人の姉と一人の妹がおりました。
その末妹も今年亡くなり、いま、この若くして世を去った伯母のことを思い返す者は、おそらく私くらいになってしまいました。
員代伯母は、私の生家でもある京都市下京区若宮通高辻下ルで生まれ育ちました。
家を出れば、すぐ近くが祇園祭の山鉾町です。
岩戸山や船鉾が立ち並び、二階囃子が聞こえてくる。そんな町で少女時代を過ごしました。
しかし1946(昭和21)年7月13日、盲腸から腹膜炎を併発し、満17歳になったばかりで亡くなります。
終戦から、まだ一年も経たない戦後の混乱期でした。
十分な医療体制も薬もない時代。そのことが命取りになったと聞いています。
伯母は、物心ついた頃から戦時体制の中で育ちました。
自由な青春を過ごすこともなく、女学校時代は勤労奉仕の日々。
そして、ようやく戦争が終わり、これから平和な時代が始まろうという矢先に人生を閉じました。
その短き人生を思うたび、私には不憫でならない存在です。
愛娘を失った祖父母の悲しみは計り知れなかったのでしょう。
祖父が残した記録には、葬儀の前後に女学校時代の友人たちが多数弔問に訪れ、「一緒に祇園祭に行きたかった」と泣きながら語ったことが記されています。
また伯母自身も病床で、「早く治して友達に会いたい」と話していたそうです。
その何気ない言葉から、17歳という若さが胸に迫ってきます。
当時の祇園祭も、現在のような姿ではありませんでした。
太平洋戦争の影響で、昭和18年から山鉾は建たなくなり、終戦後もしばらくは本来の祭礼を行うことができませんでした。
伯母が亡くなった翌年の昭和22年になってようやく長刀鉾と月鉾の二基だけが建ち、翌23年には北観音山と船鉾が試験的に曳かれました。
本格的な山鉾巡行の復活には、さらに時間を要しています。
山鉾は建っていなかったとはいえ、伯母もきっと、再び祇園祭が戻ってくる日を楽しみにしていたのではないでしょうか。
7月13日。
それは伯母の命日であると同時に、祇園祭では前祭の鉾建てが終わり、翌日から宵山が始まる頃です。
八坂神社氏子地域が、一年で最も心躍る季節だからこそ、私は長い間、100%祇園祭を楽しむことができませんでした。
「もし伯母が生きていたら」──そんな遠慮のような思いが、毎年どこかにありました。
しかし年齢を重ねるにつれ、その気持ちは少しずつ変わってきました。
私が伯母の分まで祇園祭を楽しめばいい。
鉾町に響く祇園囃子、宵山の灯り、山鉾の美しさ、行き交う人々の笑顔――。
私が五感で感じた祇園祭を天国の伯母へ届けるつもりで歩けば、それが一つの供養になるのではないか。
今はそう考えています。
私はいま、全国から京都へお越しくださる皆さまを祇園祭へご案内しています。
京都の歴史や知られざる文化財、紡がれてきた信仰をご紹介することはもちろんですが、その背景には、私自身のこうした思いがあります。
父や伯母たちが亡くなり、員代伯母を知る人は、もうほとんどいなくなりました。
私自身も来年には還暦を迎えます。
文化財や町並みは「残そう」と努力する一方で、一人ひとりの人生は、語り継がなければ驚くほど簡単に忘れ去られてしまいます。
員代伯母のことも、今では私以外には、誰も語る人がいません。
祇園祭は、毎年同じように巡ってくる祭りです。
けれど私にとっては、山鉾を見るたび、一人の17歳の少女を思い出す時間でもあります。
今年も伯母の分まで祇園祭を歩き、その景色を心に刻みながら、全国から京都へ来られる皆さまをご案内したいと思います。
そして、子どもや孫たちがいつの日かこの文章を読み、「こんな伯母がいたんだ」と知ってくれたら――。
それだけでも、この文章を書き残した意味があるように思います。
員代という一人の少女が、この時代を確かに生きた証として。
今年も、暑い祇園祭になりそうです。

